2002年台湾への旅8〜台東2,帰国まで

2002年1月3日つづき

■台東の夜
1時間ちょっとで大武から台東に着きました。バスの終点は台東旧駅でホテルの近くです。これは鉄道より便利。でもバスに酔ったようで、ホテルに帰って昼寝してしまいました。

その後暗くなってから、元気回復したので、ちょっとおでかけ。風邪はまだよくならないので、まず薬を買おう。
薬局で「かぜをひきました〜」といって、最初に出て来た薬は日本製でなんと賞味期限ぎりぎりの古いもの。これではきかなそうだ・・・「別のは?」というと台湾製の新しいのが出て来たのでそれを買うことに。(100NT)

次は夕食。牛肉麺と水餃子を食べる(85NT)。あまり美味しくない。(泣)

味はともかく(笑)お腹はいっぱいになったので、街あるき。昨日の夜9時ごろ外出した時には人影まばらでしたが、早い時間は学校帰りの中学生や高校生もいっぱいでそれなりに賑やかでした。私の泊まってたところは中山路という駅前通りでしたが、繁華街はその1〜2本隣の通りの中華路というところのようでした。洋服やさんやオシャレな美容室。時計屋さんなどが並ぶ商店街がありました。都会になれてる私は、やっぱりちょっとほっとしました。

「台湾に来たら、絶対飲まなきゃ!」の珍珠NAI茶(25NT)を買って、コンビニでお菓子を買い込み、今夜はカウチポテトしよう〜ということでホテルに帰ってきました。
←珍珠NAI茶のお店のメニュー:いつかはこれを全種類制覇したいものです。

ホテルのテレビにはケーブルが入ってて、いろんなチャンネルが楽しめます。ポテトチップスとか、昨日買った果物(釈迦頭は食べにくい。でも美味しい〜)とか食べながら、チャンネルパチパチ。日本のNHKも見られるので、そのチャンネルだけお正月気分でした。

台湾の医療の歴史をたどるドキュメンタリー番組がおもしろかった。古い習慣と近代的な衛生観念の戦いみたいな話とか。でも「烏脚病」って何だろう?

映画も何本もやってた。チョウユンファの「和平飯店」とか、アンディーラウのなんかは2本くらいやってたし。「テルマ&ルイーズ」もやってて目移りしたけど、結局「ミセスダウト」を英語&中文字幕で見ました。おもしろかった。

台北のMASAOから「いつ台北に帰って来るんですか?」と電話がかかってきた。「あしたの夜9時ごろ、それからKTVに行きたいな〜まだ陳昇のMTVも見てないし・・・」というと「じゃ、予約しますね」との返事。持つべきは友人ですね。ありがとう。

※MASAO・・・台湾の友人、5年前の陳昇コンサートでたまたま隣に座ったという縁の人。日本語がとても上手。

 

2002年1月4日

■寝坊
殺人犯になるという悪夢を見て、泣きながら起きる(笑)。時計を見ると9時半!寝坊した〜!!。
お風呂に入って、荷造りとかをしてチェックアウトしたときは、すでに11:30。
フロントで荷物を預かってもらう。フロントには社長みたいな人がいて、「今日はどこに行かれるんですか?」とかフレンドリーです。

今日は3時の汽車の時間まで、図書館に行くつもり。ホテルから徒歩5〜6分。結構近く。

途中で昨日の牛肉麺がまずかったので、もう一度別の店で牛肉麺を食べる。(70NT)(やっぱりあまり美味しくない。(台北に戻って、メイさんにその話をすると、『牛肉麺は外省人の食べ物だけど、台東には外省人が少ないから〜原住民が多い〜美味しくないのは当然だ』といわれました。なるほど・・・しまった。これから牛肉麺は台北で食べます・・・)

 

図書館についたのは12:10.張り紙がしてある。なになに?「12:00〜13:40まで昼休みです」
が〜〜〜〜ん。なんてこと!

汽車の時間が3時だから2時半のバスには乗らなきゃならないのに・・・。失敗失敗。寝坊&ご飯を食べてきたことを後悔。仕方が無いので、町をてくてく歩きまわる。文房具屋でカードを買って、熊本の実家に手紙を書くことにした。喫茶店でコーヒーでも飲もう。

探し当てた喫茶店にはいって「熱珈琲」を注文すると、お店の人が何かしきりに言ってる。なんだろ?よく聴いてみると「インスタントだけどいいか?」ときいてるみたい。(ニセモノだよ。作ってないよ。という表現だった)インスタントコーヒーは嫌だな〜、「じゃ紅茶にします」というと紅茶も「本物じゃないけど」という。ティーバッグくらいなら問題ない。それを注文。(30NT) 家への手紙では、昨日の大武のこと、一昨日の屏東のことを報告。

その足で郵便局により、13NTの切手を買って投函。

 

■台東県立図書館で調べもの

また図書館へ。(台東県立図書館→)30分くらいしか時間がない〜〜〜。

台東県の歴史関係の本を探す。

日本語で書かれた写真集。おもしろい。日本時代に発行された絵葉書(写真の)をあつめた本もあった。日本語と中国語で解説が付いている。発行は台湾。この本日本でも探せばあるのかしら?

大武の集落の写真もあった。昨日見た「廟」を中心にこじんまりと広がる集落でした。日本時代の大武というところは産業があるとかそういうことではなく原住民(当時は高砂族と呼ばれていた)の統治のための戦略的な拠点のようだった。当時の人口、日本人600人、原住民9000人とある。

さらに探していくうちに「台東庁」(日本時代の台東県の呼び方)の役所関係の資料を見つけた。台湾総督府に提出した行政全般の報告書類のようで、10巻くらいあった。「衛生」という章の「医務」というところを読んでいった。町々に配属された「公医」の名前が載っている。その中に祖母の旧姓を見つけた。昭和5〜8年頃の大武の公医だった。

わ〜。感動した。

昭和10年になると大武の公医は別の人の名前になっている。きっとこのころに曾祖父は亡くなったのだろう。でももう時間切れ。それ以上の資料を探し当てることはできなかったけど、台湾にある本のなかに曾祖父の名前を見つけられて嬉しかった。ここまで来てよかったな、と実感した。

 

■台東〜台北

何やら、達成感のようなものを胸に、台東新駅行きのバスに乗る。台東新駅前で、トラックで売りに来てるかご入りの釈迦頭を買う(100NT)。今夜カラオケで会う台北の人たちへのお土産だ。台東駅の構内放送には原住民の言葉もあるみたい。なんだか響きが違う。自強号に乗り込む。

自強号(にかぎらず台湾の列車のほとんど)は全席指定。自分の席に座ってると隣の席の人が自分の仲間と席を替わってくれといってきた。旅も終盤、耳が慣れて、中国語がずいぶん聞き取れるようになってきた。こういう会話はもう大丈夫。その人達も台北までだというので切符を交換する。台北に行くとことなのか帰るところなのか、釈迦頭をダンボール箱で持ち込んでる。やっぱり台東といえば釈迦頭なのね。

これから6時間の列車の旅。途中、車内販売の駅弁も買ってみた。初体験!(高い方で100NT)ちょっと脂っこくて胸に来る。小さい方で十分だった。

台東から花蓮までは花東縦谷という山と山の間を走る。ビンロウの木と果物畑が続いている。無人駅も多くて、ひなびた感じ。どの駅にも降りてみたい。花蓮から先は海岸線を走るのだけど、そのころにはもう暗くなっていた。

■台北最後の夜から朝まで(!)

9時に台北に着いた。

蛋蛋と待ち合わせて、カラオケまでの時間、CDショップへ行く。お腹がすいた。夜食に「たんあびこう(筒仔米)」を買ってKTVに持ち込む。蛋蛋、鳥姐、メイさん、MASAO、チャーリー、松山空港のボーディング橋のしごとをしていたIDO、RB、私も入れて8人で午前3時すぎまで歌う。風邪も少しはよくなっていたので、何曲か歌いました。あとはおしゃべり。I DOのベネチアの写真は素敵だった。(彼は去年の6月、ベネチアビエンナーレで陳昇が歌ったとき、ベネチアまで行ってしまったのそうだ・・・・すごい)

鳥姐の家においておいた荷物は、ホントは自分で取りに行くつもりだったのだけど、台東からの帰りが遅くなったのでKTVに持って来てもらった。今夜の宿は、空港バスのバス停に近い「RB」の家。泊まるのは久しぶり。以前はよく泊めてもらっていたけど、最近忙しい彼女には会っていなかったので頼まないでいた。コンサートで会った時、「どうしてうちにこないの?さみしいじゃないの」と言ってくれたので、最後の晩はお邪魔させてもらうことにしたのでした。

でも泊まってるような時間はないですね。これでは。

とりあえず、カラオケのあとRBの家へ。荷造りして何だかんだとおしゃべりして、お風呂に入らせてもらって(泡澡ね)、犬と遊んで。もう5時だ〜〜。(RBにもらったワールドカップ野球の台湾大会記念テレフォンカード→)

布団とかも用意してくれていたので1時間だけ休ませてもらった。

6時起床で、顔も洗わず、空港バス乗り場へ。
(←まだ暗いバス停)
9時半のNWで帰国しました。帰りも荷物の検査が厳しく、おみやげでパンパンにふくらんだバッグを抱えて並ぶのはしんどかった。おみやげと言っても、重さの大部分を占めていたのは、陳昇のコンサートの記念品の空気でふくらます起きあがりこぼし。(底に砂が入ってるから超オモイ!)中国語では「不倒翁」と言うのだそうな。

 

今回もすごくいろんな人にお世話になりました。これで台湾へはこの5年で15回行ったことになるのかな? いい体験、いい思い出がまたまたできました。
ありがとうございました〜。また行きますね。その時はよろしくです!

 

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