2002年台湾への旅7〜大武

2002年1月3日つづき・・・このページは写真がたくさんなので、ちょっと重たいかも。ごめんなさい。

■いざ大武へ

ここ台東県大武は祖母が、小さい頃から結婚する頃まで住んでいた土地だという話。中国語では「だーうー」と発音するけど、祖母は「だいぶ」という。「台北」も「たいほく」だし「屏東」は「へいとう」です。

ずいぶん前に、祖母の知り合いの人がここへ来て、祖母の家はなくなっていて、そのあたりはバス停になったと言っていたらしい。また、この間の聞き取り調査(笑)により、祖母の家のあったところは病院を開業していたはずで、また隣に警察の官舎があって、警察署と郵便局と小学校があった。と言う情報を得ていたので、そのあたりを手がかりに、何となく雰囲気の伝わるような写真を撮ってこよう〜。

と言うのが、目的です。

さらに、出発前に発売されていた陳昇の新譜のMTVの撮影地がこの大武の駅のホームだということもわかった。ファンとしてはやはりここは押さえておかなくては!同じホームで写真を撮ろう〜。

さらにさらに、台湾の友達メイさんに「大武にいく」と話をすると、「10年前に行きましたよ。本当は高雄から台東に行くはずだったんだけど、大武の景色がよくて途中下車したんですよ〜」と言う答え。

私は個人的に景色や雰囲気がどうのと言うことではなく、ばーちゃんゆかりの地と言うことで大武に行くのだけど、陳昇やメイさんの心もとらえたところなのかな?台北でさんざんガイドブックも見たけど、全く載っていなかったので観光地になるような感じはないのだうけど・・・。期待。

■大武車站

台東から自強号でわずか30分で到着。

途中は、トンネルばかりでちょっとつまらない。時々車窓から海が見えるけど、席は山側だったし・・・・。
帰りをバスにするのは、よい選択だと思う。時間はかかるだろうけど。

←陳昇の「深藍五十米」のMTVのロケ地

大武の駅は山側にある。ホームから海が見える。そして海辺に見えるのは小さな集落。これは街というより村って感じ。

駅で、降りたのは私の他に2〜3人。列車ごとにホームが開くようになってるので、のんびり景色を眺めたり写真を撮ったりする様な感じじゃない。駅員さんにホームから追い出されてしまった。


ホームから見た駅舎


恥ずかしいので、画像処理済(笑)

駅舎には駅員さんがいない。2〜3人のおじさん達がたむろしてるだけ。なんなのかな?タクシーの運転手?

かえって一人だったら、写真とかとれるのにな〜。
仕方ないので遠く離れてから駅舎をバックにセルフタイマーで記念撮影。↑

■大武のバスターミナル〜国道〜海

山を降りて街へ。途中車が近づいてきて「乗れ乗れ」という。
タクシー業をやってるのかな?普通の乗用車だけどな〜。言葉もほとんど聞き取れないので、ここは無視。何度か声をかけられた。駅から歩く人はあまりいないのかしら?

駅から歩く途中。道路には鶏が・・・。のどか。

国道まで降りてみると、「台汽」のバスターミナルがあった(無人)。時刻表を見ると、だいたい2〜3時間に1本くらい。3時のバスで帰ろうと決める。とすると3時間くらい時間がある。十分でしょう。

ところで、このバスターミナルが祖母の家のあったところなのかな?

バスターミナルでもタクシーなのか?白タクなのか?声をかけられました。言葉はぜんぜん聞き取れない。 

国道沿いには運転手向けなのでしょう、食堂などがたくさんありました。が、めざす古いものは全くなし。この写真を撮っても仕方ないかな・・国道自体も戦後できたものかもしれないし・・・。

そうそう、セブンイレブンもあって、その2階はホテル(旅社)になってた。これ読んで、日本から行ってわざわざ泊まる人はいないと思いますが・・・念のために書いておきますね。

橋を渡って、さらに南へ。

これが祖母の言ってた鉄線橋のあったところかな?吊り橋って言ってたけど、今は国道の立派な橋になってます。歩道がないので、車道をあるく。トラックがばんばんとおる・・・こわいよ〜。でも写真はしっかり撮ってたりして・・。

建物など新しいものばかりで、祖母へのお土産になりそうな写真が撮れない。

そんなわけで、70年くらいでは地形は変わってないだろうと海へ行った。海岸は台湾東海岸独特の砂利になってて、河原みたいな感じ。というか、河口だから河原みたいで当然か。

←河口

誰もいない。それもまたコワイものです。それに寒い!
祖母へのお土産にと小石を拾いました。

海はきれい。写真ではいまいちうまく撮れていないけど。夏にまた来てみたいな〜と思いました。

海辺には公園がつくってありました。そこにあったこの看板。「槌球場の保護のためにみだりに入らないで下さい。」って書いてあるみたい。槌球ってゲートボールでしょうか???

さらにこれはなんだ?日本語が書いてあるけど・・・。

「猿も木から落ちる。自慢するな。」なかなかの達筆だ。でも前に書いてある中国語とあまり意味が繋がらないような・・・・。

■大武の旧街道へ

公園の展望台(2階建て)から、駅やバスターミナルのある方をのぞむ。手前はさっき渡ってきた橋。

国道から、1本山側の道にはいってみる。こっちには家がいろいろあって旧街道っぽい。警察署や郵便局もある。小学校もあるし・・・お!こっちかな?祖母の家のあったところは。さっきのバスターミナルとは 1キロ近く離れてるけど・・・。どっちかが移転したのかな?これは考えていてもわからないことだ・・・。地元の人に聞きたいけど・・・。誰に聞こう???

大武の廟(観音堂)

道の先に廟があって、おじいさんが一人座っていた。
この人なら昔のことを知ってるかも!しかもひまそうだし・・・話しかけてみた。

しかし・・・おじいさんは耳が遠いようだった・・・・。残念。

廟でトイレを借りた。公衆トイレになってる。ありがたい。 

廟の裏手の階段を上り、高台に登ってみた。いい景色。

景色を眺めながらいろいろ考える。
祖母の家があったところはバスターミナルの方だろうか?それともこっちの警察署や郵便局のあるところ?どこかで聞いてみよう。せっかく来たのだから。
警察に聞いた方がいいかな? 
「この警察署は日本時代からここにありましたか?」って。でもそんな古いこと知ってる人いないかも。転勤とかも多いだろうし・・。郵便局も同様だよね。それに仕事中にじゃまするものな〜。屏東の学校ではたまたまラッキーだったけど・・。そうそう、ラッキーは続かないだろうし・・・。

高台を降りて、国道のところまで戻ってみる。警察署の裏手に「大武天主教教会」というキリスト教会があった。中をのぞくと、広い庭の向こうの建物に人影が・・。

教会の人なら話を聞けるかも。古い人じゃないかもしれないけど、少なくとも怖い人じゃないだろうし・・・。

ということで中に入ってみました。中は6畳くらいの部屋で、年配の男性二人と女性が一人、聖書を読んでるようでした。

■大武天主教教会へ 

「ニーハオ、請問一下」と声をかけてみる。
「なにか用ですか?」(中国語)と言われたので、まず日本から来た話をしました。

最初、「我是日本来的」と言ったのが、「知本」(台東市の南にある有名な温泉地)に聞こえたらしく「NI是知本来的MA?」と言われたのは笑いました 。「不。日本来的」というと、「あなた、にほんじんですか?」と突然日本語に。「日本語を話されるのですね。」というと「私たち70歳以上の人間はみんな話ますよ〜」と言うお答え。

私が話しかけたおじいさんは、パイワン族の人(大武はほとんどパイワン族らしい。)で、各村の代表として教会に集まって教義の勉強しているのだそうですが、原住民の人たちは部族ごとに違う言葉を持つので日本語が共通語になってると説明してくれました。日本時代に日本語を勉強したから話せる、ということ以外に、現在でも日本語をそういう風に使ってるとの話。

「お邪魔じゃないでしょうか?」と一応断ってから事情を説明しました。郵便局と警察署のことを聞くと、

「警察署も郵便局も日本時代から、あそこにありますよ。建物は変わりましたが。はぁ日本からいらっしゃったんですか?お祖母さんのお名前は?あ、ちょっと記憶にないですねぇ。じゃ、よかったらちょっとご案内しましょう」と一緒に近所を廻ってもらえることになりました。場所はこのあたりと言うことで間違いなさそうです。でもバス停の問題が残ってます。

「バス停は橋のずっと向こうにありますよね?祖母の家のあったところはバス停になってると聞いたのですが・・」

「バス停も10年くらい前まではこの郵便局の近くにあったのです。そのあと向こうに移ったんですよ。今でもこっちにもバスは停まりますけどね。」

あ〜なるほど。それで解決です。祖母の話とぴったりあっていきます。嬉しくなってきました。ここまで来た甲斐があったな〜。おじいさんに話し掛けてよかった!

■おじいさん達と一緒に

警察の宿舎前の路地。写真右手が宿舎。左手が警察署。手前に大武天主教教会がある。

ここに祖父母が住んでいたということなのかしら。。

「ここの塀は日本時代のものですよ。警察署も郵便局も新しい建物に変ってしまったけど、この塀はむかしのままですね。」

祖父が警官だったことを言うと「じゃ、あなたのおじいさんは、パイワン族をおさめとったんですな。」と言われました。ちょっとそれ以上、突っ込んだ話をするのはためらってしまいました。次の機会があったら、もっと話を聞いてみたいですが。

古い家

「昔は警察の隣に『ブトクテン』というのがあって、その隣が郵便局でした」という話もしてくれました。

翌日台東の図書館で調べたら「ブトクテン」と言うのは『武徳殿』と書き、警察官のための道場で、日本時代には有名な建物だったようです。

大武小学校跡

「ここには日本人の通う『小学校』と台湾人の通う『公学校』の二つの学校が建っていました。戦後は小学校として使われていましたが、今は移転して、今度ここは原住民のなにかに使われるんじゃなかったかな〜」

祖母の話と一致!小学校は2つあったと言ってた。

「私たちの世代は日本語を勉強しましたけど、学校の途中で戦争が終わって、今度は中国語を習いました。だから中国語も話せるんです。」

武道館:日本時代にはライ病関係の施設だったそう。

ここは、警察署の裏で、さらに警官宿舎のとなり。
祖母の家があったとしたら、ここじゃないかなと勝手に想像。きいてみたらここは「ライ病関係の施設」がったとか。おじいさんたちは日本時代の病院の場所は覚えていないと言ってたけど、大武に最初にできた病院が祖母の家だったとしたら、そのあとそこが別の医療機関に形を変えたって事は十分考えられることじゃないかと思う。

というわけで記念に1枚。

親切にしていただいたパイワン族のおじいさん。

別れる時、住所をお名前を書いてもらったのだけど、二人とも日本名を持っているので「じゃあ、日本名を書きましょうかな。」と書いてくれた。坂西不二夫さん(帽子の人)と吉村勉さん。さらにパイワン族のお名前も・・とお願いすると、カタカナで書いてくれました。お二人ともとてもいい方でした。ありがとうございました。

最後に「おばあさんに、あなたの台湾の兄弟は日本語を忘れていなかったと伝えて下さいね。」と言われました。

■帰途へ

帰りの橋からも1枚。
この上流に吊り橋がかかっていたと教えてもらいました。

おじいさん達に何度も何度もお礼を言って、また橋を渡って、バス停へ。途中の食堂で水餃子を3分でカキコミ、バス停に行ったら3時ちょっとまえ。ふ〜。でも私の持ってる時計あってないかも。不安になり、今日帰国するumeさんに電話(空港でした)時間を確認して、しばらく待ってるとバスが来ました。

乗ろうとすると「休息」と言って運転手さんが出て行きました。あれれ〜。よく見るとバスの行き先は「台東」ではなく「高雄」になってました。危ない危ない。見ないで乗ったら高雄に行くとこだった。

運転手さんが戻ってきましたが、高雄行きには用はないと乗らないでいました。運転手さんが、「乗らないのか〜?」と手招きするので、むむ、念のため・・・と、一応「台東行きですか?」ときいてみる。「そうだ」との答え。

やっばーー!!いったい車体に書いてある行き先はなんなのよ!乗り込んでみると、お客は私一人。いきなり走り出したのでお金を払わずにいたら、10分後くらいに途中の展望所みたいな駐車場に車を止めて「小姐!」と呼ばれ、料金を払うように言われました。(140NT。列車より高い)

景色はそれこそ絶景といった感じだったと思いますが、窓にスモークがかかっててぜんぜん見えませんでした。さらに・・眠ってしまったみたいでした・・・。なんてこと!



おまけ:大武の海

  8へつづく

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