2002年台湾への旅4〜祖母と台湾

旅行記はちょっと中断・・・・

昭和のはじめの屏東女学校
ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、私の祖母は台湾生まれの台湾育ちで、祖父母が知り合って結婚したのも台湾でした。そのことは、昔から知っていましたが、詳しい話を聞いたことはありませんでした。私が台湾に興味を持つようになったこととも直接に関係が無く、むしろ台湾に興味を持つようになったので、「そういえばーちゃんは台湾生まれだっけ・・・」と思い出したようなものだったのです。

 

数年前、台湾時代の写真を見せてくれました。60年以上の時間が経過したその数葉の写真には女学生だった祖母が写っていました。屏東女学校の卒業写真や修学旅行で阿里山や台北に行った写真がありました。
太平洋戦争中、祖父母は中国大陸にいて、戦後引き上げてきたそうです。祖母はそういう昔の苦労話はしたがらないので、きいたことはありませんが、引き上げの混乱の中、大切に持って帰ってきたのだろうなと思います。

 

祖母は今年85歳です。20歳のころ台湾を離れ、それから2度と帰っていないそうです。私は、熊本に帰る度に

「ばーちゃん、台湾に行きたくないと?あたしが連れて行くよ」
といってみるのですが、

「テレビで見るばってん、台湾はもう変ってしまったもん。行ってもしょうなか。」
と、もう台湾に行く気はないようです。本当のところは分りませんが。

 

最近、「私も、台湾にももう15回も行ってるのだから、一度くらいばーちゃんの住んでいたところを尋ねてみよう。」と思い立ちました。それで、去年10月に帰省した時に、どのあたりに住んでいたのかとか、祖母の両親の名前は何と言うのかとか、家の周りはどうだったのかなど、具体的なことを聞きました。
その情報をもとに、この年末年始の旅行中に、その場所を探してみることにしました。70年も経っているので、そのころのものなどは全く残ってはいないでしょうけれど、それでもあたりの写真を撮って、祖母に見せてあげたいなと思ったのです。

というわけで、この旅行記の後半は、かなり個人的な思い入れによる「70年前のばーちゃんゆかりの地を訪ねて」です。

祖母からきいた台湾の話・・・

 

大正6年、台湾生まれ。父親が台東県大武の医師として赴任したため、大武で育つ。父親は大武の初めての医者だったらしい。大武の小学校に通う。その頃は日本人の通う「小学校」と台湾人の通う学校は分かれていたらしい。

 14〜5歳の頃、屏東にできた屏東女学校に1期生として入学。寮生活を送る。学校では走り高跳びの選手だったとか。阿里山や台北に修学旅行に行ってる写真がある。楽しい学生生活だったよう。大武に帰る時には、屏東から潮洲まで鉄道で行き、そのあと「かご」で山越えをしたといっていた。かご・・?!

 屏東女学校の同窓会は繋がりが強くて、今でも毎年会合が九州各地で開かれているそうです。昭和50年代には台湾でも同窓会があり、出席しなかった祖母もその時の写真を持っていたので見せてもらいました。女学校のあった場所は現在「国立屏東女子高級中学」(高校)になっているのですが、その学校で撮った記念写真に写っている校舎と祖母の卒業写真に写っている校舎とが全く同じ建物で、「まだこの建物が残っているんだ〜!」と感動しました。

 大武の街の祖母の家の近くには川が流れ、そこには「鉄線橋」と呼ばれる吊り橋がかかっていた。祖母の家から海が見えた。近くには郵便局と警察、そして小学校が二つあった。

 祖母の家の隣に警察署の官舎があり、祖父はその官舎に住む警官だったらしい。(その当りは照れているのか、あまり話してくれないのでちょっとよく分らない)祖母が結婚した時、もう祖母は両親とも亡くしていたそうです。

 昭和14〜5年、祖母は出産のため日本へ一時帰国。祖父は職を求めて中国大陸へ。私の父が生まれた後、祖母と父も中国へ揚子江流域の街で過ごしたらしい。終戦。昭和21〜2年ごろ、上海から引きあげ。

 
7〜80年代の屏東女子高中
5へつづく
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