窓辺に置かれた薄荷草
目覚めると光を浴びている
草に口が利けるなら・・・・・話してほしい
ああ・・・・・こんな天気だと・・・・・
しきりに誰かを想ってしまう
雨の中ひとり歩いていた黄色い小犬
散歩してると僕のところにやって来た
彼女の言葉を思い出す 僕が恋しくなって
でも話相手がいなければ
小犬とおしやべりするのと言った
But,Don't talk to a dog at raining days.
Don't talk to a dog at raining days.
僕は思う 小犬だって寂しくなって
だから雨の中ひとりぼっちで歩いてる
Hello,Baby dog.
君も傘に入らないか
I am living in the "house of missing you".
I am living in the "house of missing you".
7メジャーのコードでこの歌を終えると、彼は流木を抱くようにギターを抱いた。まるでこの世界で頼れるものはそれしかないというように・・・・・。
首をうなだれ、まだそっと口ずさんでいるが、それはギターと内緒話をしているようにも見える。席の前の走馬灯が頼りなく光っている。彼はずっとその7メジャーのコードを弾き続けた。一度、また一度と・・・・・。
しかし、フロアにはもう客はいなかった。かなり寒くなったから、誰も外出しようとはしないのだ。確かにただ誰かを想うのにふさわしい一日だった。カウンター係の女の子がゆっくりやって来ると、彼に氷を入れたウイスキーを差し出した。
彼は顔をあげ、無表情にじっと見つめる。こんな風にすればするほど、なおさら人に思わせてしまうものだ。心の中にたくさんの物語を隠していると・・・・・。
物語を隠している者は誰もが沈黙する。しかし、カウンター係の女の子もそんなつもりで彼に近づいてきたわけではない。それが彼女の仕事の一部なのだろう。人のグチを聞きなれている、気立てがよい女の子・・・・・彼女が彼の前に立っている。
「老麻・・・・・それは新曲なんでしょ?
今、歌っていた曲、今まで歌ったことなかったよね!
すごくいいわ・・・・・」。彼は少し身体を浮かし、彼女の持って来た酒を受け取った。
「新しいわけでもない・・・・・ただあまり歌うことがないだけさ・・・・・」。もしかしたら、人恋しくなる季節のせいかもしれない、と彼は思う。今夜はどういうわけか、もう遠く過ぎ去ったと思いこんでいた愁いが、何もかも一斉に、心の中に湧き上がってくる。
「私、カラオケであなたが人に書いた歌を歌ったことがあるわ。あの人に――――書いた歌よ!」。大きな目を見開いて、その歌手の名前を思い出そうとしているようだ。
「本当にいいなあ!
あなたたちは心の中の感覚を歌にしたりできるんだから!
私たちみたいだと、だめだわ・・・・・心の中にもっとたくさん悩みがあっても、そのまま持ちこたえて行くしかないもの・・・・・」。老麻はギターを置くと、手の中のグラスを軽く揺らした。
「何がいいんだ?
あんなにたくさん書いても、使いものになるのはひとつか、ふたつじゃないか・・・・・」
「あなたが今歌っていたあれ・・・・・僕は思う、小犬だって寂しくなって・・・・・そんな感じ、私にも身に覚えがあるわ・・・・・」。彼女は性急に話を続け、老麻の考えを断ち切ってしまう。
「本当よ!
時には、ひとり、訳もなく悲しくなっても、本当に話相手もいない・・・・・だからって友達の邪魔をするのは、もっと気が引けるし・・・・・」。彼女は笑いながら言う。
「だからカラオケに行くの。時にはひとりでも行くわ。で、大声で歌い続けるのよ。笑わないでね。ひとりで泣き出すまで歌うこともあるの・・・・・」。老麻も笑う。だが、実に苦い笑いだった。
「だから、あなたたたちが歌を書くのにも、理由があるんでしょ?
私が言いたいのは、あなたたちみたいにラブソングを書く理由よ、でしょ―――。きっとひとりの人がいるんだわ。つまり・・・・・そこにはきっと誰か、想われている人がいる・・・・・」。彼女はしかし、大真面目に尋ねようとしている。
老麻はゆっくりとポケットから煙草を取り出し、口にくわえた。彼女の放った質問を考えているように見える。
彼は思う・・・・・。そうかもしれない。ものを書く人間がいつも思い至るひとつの問題。彼は考えていた。自分がものを書く理由は、一種の苦悩を発散したい思いにかられているのか、それとも本当に誰か想っている人がいるのか。
もしかしたら・・・・・、単純な妬みや恨みに過ぎないのだろうか?
時には、歌手というものは娼婦のようではないか?
もちろんひとつの作品が生まれる時の達成感に、彼は喜びを感じる。しかし、ひとつの作品を生み出すのは、それほど複雑な要素ではなく、ただ単純に誰かを想うことから、あるいは誰かを恨みながら想っていることから生み出されるというべきだろう。
作者が心のうちに隠している本心を理解できる者はいない、と彼はいつも思う。
しかし、ものを書く人間自身は本心を曝け出しているのだ。まさに娼婦のようではないか?
もしかしたら―――。人はさらに冗談のように質問するのだ:こう、質問する。じゃ、どれだけ恋愛したら、素晴らしいラブソングが書けるんだい?
老麻は考えていた。目の前のこの気立てのよい女の子にどう言えばいいのだろう・・・・・しかし―――ほとんどの場合、ものを書くということは、全く一銭の価値もないように思える。もし誰かを想っているからといって、それを歌にして―――何になるというのだ?
「お金のためだろ?」。最後はいつもこう言うのだ。
「お金のためだろ?」。彼女が耳にしたのは、老麻のこの言葉だった!
「冗談言わないで・・・・・あなたはきっと何度も恋愛したことがあるんだわ。だから歌が書けるのよ・・・・・」。彼女は静かに笑っている。
多分、アルコールのせいだろう。笑い出した彼女の様子が、老麻には実はいつもより魅力的に思えた。フロアの客はみな帰ってしまった。ひとり入口でぼんやりしていたレジ係も帰り支度を始めたようだ。
アルコールのせいだろう。老麻もぶしつけに彼女に問いかけた。
「僕たち・・・・・そんなに親しかった?」。「一度目は他人でも、二度会えば友達よ!
あなたはこの店でもう半年も歌っているでしょ?
それにあなたの歌のひとつひとつ。何度も聞いたから、実際に分かるような気がするの。あなたが心の中で思っているあれこれが・・・・・」。少し鬱陶しくなるような言葉だった。
「本当かな?
じゃ、今歌っていたあの歌を聞いて、僕が心の中で何かを思っていると感じたの?」。少なくとも彼女の誠実さと無邪気さを感じることはできた。作者の元の意図をでたらめに拡大して、そこに骨髄に達するほどの痛みがあるはずだと、決めてかかっているわけではないようだ―――。
「もう一度歌ってよ!
いいでしょ―――どっちみち、もう店には誰もいないんだし・・・・・あなたの好きなように歌って・・・・・」。
しばらくの間、老麻は彼女をじっと見つめながら、心の中で思っていた。今日は何という日なんだろう?
寒い―――街全体が外側から凍りついてしまったかのようだ。しかし、この地下に包み込まれた店、フロアの隅の壁際、さらには心の中まで、実際には火のように熱かった・・・・・。この女の子はきっと牡羊座で、今日は彼女の月が満ちている日にちがいない。
「君はきっと牡羊座だろう―――」。そう口に出してしまった。
「あら、どうして分かるの?」。彼女は目を丸くして驚いている。
「・・・・・」。何と言葉を返せばよいのか、老麻にも分からなかった。
「そうだな、やはり歌ったほうがいいようだ・・・・・」。そうかもしれない。時には、何と言えばよいのか、本当に分からないことがある。そんな時には、歌を歌うことで、むしろ心の中のそんな感情をやり過ごすことができるような気がする―――。
部屋中に立ち込めるコーヒーの香りに
君の心さえも異郷にあることを思い出す
もう僕のものじゃない 僕を想うことがあるかい
彼は君によしくしてくれる?
だけど―――僕も元気でいるよ
煙草はやめなきゃと思うんだ
おとなしく散髪にも行くべきかも
彼女がそばにいるように いつも声に出してしまう
ああ―――こんな天気だと
どうしても誰かを想ってしまう
But,Don't talk to a dog at raining days.
Don't talk to a dog at raining days.
僕は思う 彼女にも心の痛みがあれば
雨の中を濡れながら歩くだろう
Hello,Baby dog.
君も僕と同じ気持ちなのかい
I am living in the "house of missing you".
I am living in the "house of missing you".
また同じ7メジャーのコードを、エンディングで一度また一度と、繰り返し爪弾きながら歌う・・・・・。
「君の名は阿湘だろ?」。ギターを弾く手を止めると、彼は突然、無造作に尋ねた。
「そうよ! 三水偏の湘・・・・・」。
「男の名前だ・・・・・、男の名前のように聞こえる」
「そうなの!
だから男友達ができないの―――」。言い終わると、また静かに笑っている。
「あっ!
あの女性は?」。彼女は突然、また真面目に質問を始める。
「どの女性?」
「あなたの歌の人じゃない?
犬は構ってくれなかった。あの犬は嘘だと、私には分かるわ・・・・・あなたが歌に書いた女性は、その後どうなったかを聞いているのよ」
「どうしてこの歌の中に、ひとりの女性がいるはずだと思うんだ・・・・・?」。この歌の中に、本当にひとりの女性が存在するのか、話したくはなかった。老麻は思う。ラブソングの中にはひとりの女性が存在するはずだと、どうしてこうも頑強に決めてかかるのだろう。
「聞けば分かるわ! どうして人を騙したりできるの?
もし騙しているなら、私たちがカラオケで泣いたり笑ったりしながら歌うなんて、馬鹿みたいじゃない?」。もっともらしい言葉である・・・・・。
「死んだよ・・・・・どうだい」。どう言えばいいんだ?
老麻はまた考えている。
「嘘つかないで・・・・・どの歌のヒロインも死んでしまうなんて、そんなにたくさんのヒロインが都合よく死ぬわけ?」。彼女は遠慮会釈もなく嘲笑し始める。
老麻はまた煙草に火をつけ、口にくわえた。長い髪が額にかかり、実際の年齢よりも頽廃的に見える。女性が一目で心を動かされるタイプではない。好奇心の強い女性が近づきたいと思うタイプというべきだろう。
彼はまたあの7メジャーのコードをそっと爪弾く・・・・・。このコードはいつも思い出させる。阿湘というこの女の子が歌の中にいるはずだと決めてかかった、あの彼女を・・・・・。
実際には、もう何年も前のことだ。彼は自分に腹を立てていた。とっくに忘れるべきだったのに、忘れられなかった・・・・・そのうえ、記憶はなぜか、年月とともにかえって鮮やかになって行く・・・・・。
* * * * * * * * * * * * * * * *
あの年、彼はブリュッセル音楽院の三年生だった。突然、雪が降り出した冬の日、この街へ来たばかりの彼女が道に迷ったのではないかと、寒さをこらえながら、路地の出口にあるカフェテリアの表で彼女の帰りを待っていた。
暖かいコーヒー館からは、コーヒーの香りが溢れて来る・・・・・。
老麻はつばを飲み込み、背中を丸めた。留学生の生活は苦しい。おそらく暖を取るために、一杯の熱いコーヒーを飲むことも惜しいのだろう。彼はそこに長い間立っていた・・・・・。あるいは、彼女とすれちがいになるのを心配しているのかもしれない・・・・・。
「老麻―――」。彼は暗がりから歩み出てきた彼女を見た。肩や髪の上に白い雪が少し・・・・・。
日暮れ時に突然変った天候に驚かされたかのように・・・・・しきりに瞳を動かし、涙さえ滲んでいるようだ・・・・・。
彼は足を踏み出し、彼女を抱き止めた―――。その身体から漂う香りに包まれると、雪の日に倒れかかる白い薔薇を、突然、受け止めたような気がした。
「恐がらないで・・・・・」。老麻はそっと髪の上の雪を払い落とすと、身体のそばに熱い息を吹きかけ、彼女に暖を取ってやった。
「どうして雪なんて降って来るの?」。彼女は小刻みに震えている。
「好きじゃなかったの?」。老麻は笑う。
「帰って来れたんだから、いいよ―――僕を見て、笑ってごらん!」。老麻は彼女をからかった。
彼女はなおも不機嫌に顔を強張らせている。
「熱いコーヒーはどう・・・・・、クロワッサンもあるよ!」。彼女が笑った。彼は思い出す。クロワッサンが彼女のお気に入りだ。
「ここがこんなに寒いと知っていたら・・・・・、私、来なかったわ!」。駄々をこねているようだ。
「慣れたら、少しはよくなるよ・・・・・。どうだい?
お金が貯まったら、僕たち、南へ行こうよ・・・・・パリへ行く、それともマドリード・・・・・、どう?」
「いつも、そう言ってる・・・・・」
* * * * * * * * * * * * * * * *
「じゃ、君自身の物語はどうなんだ?」。老麻は考えている。今夜はどうしたんだろう。この店の女の子とこんな話を始めるなんて・・・・・。
「私には物語なんてないわ・・・・・」。阿湘はまた静かに笑っている。
「その後どうなったの? あの人・・・・・」
「ある―――フランス人と行ってしまった―――」。うっかり口を滑らしたように聞こえる。
「そうだったの?」
「そういうことだ!」
「そうだったんだ!」
「そうだよ! 感情の物語はみんなそういうものだろ?
男が逃げなければ、女が逃げる、何の違いがあるんだい?
生死を共にするなんて言うけど、実際には・・・・・結局、誰もが自分の立場から見て、公平か不公平かというゲームに変えてしまうんじゃないか。心変わりすれば、回想を始めるんだ・・・・・。あっ!
あの時、払った犠牲には価値があったのだろうかなんて・・・・・」
「分からないな・・・・・、私にもはっきりとは分からない。何が犠牲で、何が犠牲でないのか・・・・・」。阿湘はまた習慣的に眼を見開き、じっと上を見ている。
「どうも、君の恋愛物語は僕のものよりも華やかそうだ・・・・・」
「私には恋愛物語なんてないわ・・・・・」。彼女は静かに笑う。
「話してごらん、聞いてるだけじゃだめだよ!」
「私ね―――十いくつの時に田舎を出たの・・・・・家は台東・・・・・台東の海辺の小さな町。だけど、田舎に住むのはちっとも好きじゃなかったわ―――、私は今の生活がわりと好きよ、まあ、少し―――退屈だけど。でも、やっぱり田舎に比べれば、それほど退屈じゃないわ―――。歌唱コンクールや何かにも参加したことがあるの・・・・・。そのあとダンスチームに加わって―――日本にも行ったことがあるのよ!」。彼女はしきりに話し続ける。
「僕が言ってるのはそんなことじゃない・・・・・うーん・・・・・それでもいいけどさ、僕が聞いているのは恋愛のことだよ・・・・・」。老麻は彼女に思い出させようとする。
「うーん!
どう言えばいいのかなあ。いつもすぐに終わってしまうの・・・・・。私のどこに問題があるのか、自分でも分からない。いつもうまく行ってると思っていても・・・・・訳がわからないうちに、人は私から離れてしまうのよ・・・・・」
「もしかしたら―――君は優し過ぎるのかもしれない。そうだろ。僕も確かにそう思う時がある。もし、あまりにも優しくすると、人というものはかえって手応えがないとか、個性がないとか思うものだ―――つまり―――粘土のようで、人はかえって分からなくなるんだよ。どう合わせればよいのか?・・・・・」
「そうだ!
あなたがそう言ったから、思うんだけど・・・・・こんなこと言うと、きっと浅はかなやつと思うだろうけど、だけど、男が女に求めているのは―――あれだけだと思うわ。あれのあと、すぐに冷淡になってしまう・・・・・」
「そうかな?」。しかし老麻は、彼女のセックス観には、完全に同意するわけではない。
「もしかしたら、君のまわりにいる男が、わりと特殊なせいじゃないのかな?」。まるで男性のために弁解しているかのようだ。
「やめてよ―――男なんて、みな同じでしょ?
外国人だって同じなのよ・・・・・」。阿湘は軽蔑するように言う。
「だから―――いつもそうなのよ!
いい感じなのに、訳のわからないうちに別れが来るの・・・・・・だけど、私も気にしてるわけじゃないわ。本当よ。今はお金を貯めることだけ考えてるの、そうすれば少しは安心だもの・・・・・」。彼女はまた目を見開き、じっと天を見つめているが、希望に満ちているようでもある。
「うん! もう一杯くれないか?
もしかしたら―――これが自分に贈る、千禧年の最高のプレゼントかもしれない。結局、何かを捨てなければ、また何かを手に入れるわけには行かないものさ・・・・・」。老麻は自分に言い聞かせているようだ。阿湘は下げた頭を彼のグラスに近づけ尋ねた。
「何の年・・・・・? 何のプレゼント?」
「千禧年・・・・・次の世紀が来るんだろ!」
「あっ! そうだ!
きっと誰にも新しい希望が必要ってこと、そうでしょ・・・・・。お金を貯めよう!
貯金!
貯金!・・・・・」。まるで拍子を取るようにして、背中を向けるとカウンターに向って歩いて行った―――。
「阿湘―――先に帰るわよ―――」。ドアのそばに佇んでいるレジ係は服を着替えていた。仕事が終わると、元気が出て来る・・・・・。
「いいわよ!
私が鍵をかけるわ―――。今日はどこでお楽しみ―――まだ歌を歌いに行くの?」
「まさか!
死ぬほど疲れたわ、家に帰って眠るのよ・・・・・」。どうも本音ではなく、ぶらぶらするつもりだ。仕事を終えた若い娘が、息抜きに行くのも当然ではないだろうか?
老麻は阿湘がまた持って来た酒を受け取った。ギターはすでにケースにしまい、走馬灯のそばに置いてあった。
「老皮、今日はどうして来なかったのかな―――。いつも鍵をかけに来るだろう?」。老麻は注意深く尋ねる。他意があると思われたくなかった。
「来たわよ!
あの子があわてて帰って行くのを見たでしょ?
上で彼女を待ってるのよ!」。彼女はまた少し目を見開く。
「ごめん! 僕はまだ―――」。
「とっくに看板よ―――おねがい―――さっきあなたに言ったでしょ?
男の人って・・・・・もう!
見切りをつけたほうがよさそうね・・・・・」
粘土だ・・・・・・本当に!
老麻はまたこんな風に考え始める・・・・・。
「よし!
たいして時間は取らせない、すぐに飲んでしまうよ!」。彼は手の中のグラスをちょっと上げる。
「いいのよ!
私に付き合ってくれたお礼でも言おうかな?」
「でも―――。あの人、そのあと本当に外国人と結婚したの?」。彼女はまた無邪気に質問を始める。
「結婚したんじゃないよ!
ただフランスに留まっているんだ・・・・・。しばらく連絡が途絶えていた・・・・・」。老麻は首をうなだれ、またもや記憶の泥沼に沈み込んで行くようだ。
「ずっと・・・・・」
* * * * * * * * * * * * * * * *
電話を通しても、彼には確かに感じることができた・・・・・。彼女はがらんとしたアトリエにひとりで住んでいる。
彼女は彼にアトリエの様子を説明した・・・・・。
高い天井、爪先立ちしても手が届かない窓、窓の外には青桐が一本。
「どちらかといえば牢獄のよう―――だけど―――」。彼女は電話の中でそっと話している。
「どうして突然、あなたにこんな話を始めたのかしら?
私ったら―――仕事をする気になれないの、台北を出てから随分経つわ。あなたなら――分かるでしょ。留学生の生活はあなたの言う通り―――だった。大海を漂う流木のよう―――多分、冬が来たせいね!
パリの冬はとても人を苦しめるの―――」
彼女は少し声をつまらせる。
「泣いてるの?」。彼は尋ねる。
電話の中には、しばらく沈黙が続く。
「ごめんなさい―――」
「君が元気なら、それでいいんだ・・・・・。クロワッサンを食べてる?」。何と言えばよいのか思いつかずに、彼女のお気に入りのクロワッサンを思う。
彼はそのまま、電話の中で静かに泣く声を聞いている・・・・・。
* * * * * * * * * * * * * * *
*
「その様子じゃ―――彼女のことがまだ忘れられないのね―――」。阿湘は彼の気持ちをくんで、また目を見開き、天を見つめている・・・・・。
「だめだ―――こう言うべきかな―――僕は彼女のことを忘れるつもりはない。想いというものは―――。多分、そういうことなんだろうな?
たとえ、彼女にずっとすがりついていたとしても―――」
「だけど―――電話はかけて来るんでしょ?」
「そうなんだ! 僕も電話に出るよ!
どう思う―――僕が電話に出なかったら、それでもまたかけて来るかな?」
「分からない―――。こんなの複雑すぎるわ―――感情というものを、そんなに複雑にする必要はないと思うんだけど。聞いてると、あなたたち愛し合っているみたい。それなのに―――なぜ一緒にいられないのか、一向に理解できないわ―――」
「もしかしたら―――愛し合っているという感覚を傷つけ、互いへの憎しみに変えてしまうのが恐いのかもしれないな?」
「それとも、こう言ってもいいのかな?
仇同士のような恨みに変ってしまう」。阿湘は突然顔を曇らせ、胸を撫でながら言った。
「・・・・・」。何と言葉を接げばよいのか、老麻はしばらく分からなかった。自分がさっき何かを言い間違えたのかとも思う―――。
「でも―――。正直に言うと、ほとんどの場合、感情というものをことさら慈しむ必要なんて全然ないんだわ―――。あなたみたいな人、私には理解できない。明らかに愛し合ってるのに、お互いをひどく苦しめ合うなんて―――。笑わないでね!
私が出会った男は、一人としてまともなのはいなかったけど、どちらかといえば、付き合うのも分かれるのも簡単だったわ―――。言いたいことを言って、欲しいものを手に入れる。燃え盛る偉大な愛情なんてものはなかったけど―――」。胸に手を当てたまま、あらぬほうに頭をめぐらし、自分自身の単純な感情という議題のために、どのような脚注を付け加えればよいのか考えているようだ。
「あなたは違う―――。私、その人が本当に羨ましい。それはどんな愛情なの?
彼女はきっと外国人と子供を持つことになるわ―――、それなのにあなたはここで、犬だとか―――草だとか―――彼女のために歌を書いている・・・・・。彼女が知ることはあるの?
分かってくれるの?
分かるもんですか―――。もしかしたら、あなたたち大作家というものは、物事を複雑にするのが好きなのね。まるで、そうしないと気分が出ないみたい―――、それとも、みんなが言ってるように―――そうしないとインスピレーションが湧かない―――」。阿湘は言い終わると、また目を見開き、天を見つめる・・・・・。
容赦ない平手打ちを何度か喰らったかのように、老麻は首をうなだれ、考えていた・・・・・。もしかしたら、自分が粘土なのかもしれない!
記憶の上に押し付けられて変形してしまった粘土。どこまでも、「過去」というものにしがみついている。
感情が公平な秤のようなものであるのは当然ではないだろうか?
喜びを手に入れようとすれば、苦痛や苦渋でそれを補わなければならない・・・・・。
もちろん彼には分かっていた。自分と阿湘のような女の子の間にどんな違いがあるのか。彼は過去に生きている。あるいは自分のひとりよがりな過去の中に生きている・・・・・。
しかし、阿湘のような女の子は現在に生き、未来への希望の中に生きている・・・・・。
そして自分は、現在を生きようとすることさえしなかった・・・・・。
老麻は首をうなだれ、手の中の苦い酒を見ながら疑っていた。自分は今も、本当に何かを想っているのだろうか―――。
カウンターの電話が突然鳴り始めた―――。
阿湘は低い声で電話に答えているが、顔にはさっき消えたばかりの生き生きとした表情が溢れ出す―――。静かにまた笑い始める―――。
電話を切り、バッグを引っ張ると、彼女は老麻の前で立ち止まった。まるで宿題の提出を待っている小学校の女教師のように、ただ笑っている―――。もしかしたら――――励ましているのかもしれない―――もしかしたら―――からかっているのかもしれない。
「誰かが迎えに来るんだね―――」。老麻は一気にウイスキーをあおったあと、ギターを提げてドアに向う―――。
「カラオケに行くの――YES!」。顔中に無邪気な幸福感が溢れている。
表に出ると、阿湘は振り向いて首をかしげた。薄暗い街燈の下で、老麻には実は、彼女の豊かな肢体がさらに魅力的に思えた―――。
「あなた、知ってる?
本当はね、あなたのような男に、たくさんの女の子がとても――とても『飢えてる』のよ―――」。そんな言葉を使ったせいで、自分でも目を見開き、静かに笑い出す。
「だから―――。少し楽しくやりなさいよ!
何人か女友達とも付き合って―――あまり清廉高潔を気取るものじゃないわ―――すぐに二十一世紀よ、誰だって年をとるの―――何と言ったっけ―――?」
「千禧年―――」
「そう!
千禧年、ふたつの世紀を生きられるなんて、誇りに思わないの?」。彼女はあけっぴろげに笑った。
「・・・・・・・・」。老麻にもその陽気さが伝染する。
背中を向けると、彼女は路傍に停まっている白いシビックの方へ歩いて行く―――。
運転している青年が、彼に向って好意的にうなずき挨拶した。彼女は上体を屈める。車の中にはまだ何人か男女がいて、ヒット中の流行歌が大きな音で流れている。
彼女が話しているのが聞こえるようだ。
「彼があの歌を書いたのよ―――恋に狂うとか何とかっていう歌の作曲家なのよ!」
何人かは首を伸ばし、物珍しそうに彼を見ながら、そのうえ、ヒソヒソとひとしきり議論している―――。
阿湘は突然また振り返った―――。好意的に彼を見つめながら言う。
「こうしましょう―――。かわいそうよね、もし本当に何もすることがないんだったら。銭櫃よ―――受付に伝言を残して、あなたが来るのを待ってるわ―――いいでしょ?」。いやとは言わせないといった感じだ―――。
* * * * * * * * * * * * * * * *
老麻は煙草を取り出し口にくわえた。冷たい風の中にしばらく立っていたが、寂しさや孤独といったものを本当に感じていたわけでもない。
「銭櫃か───Why not?」。自分でも笑った。
もし、これが新しい世紀の生活方式だとしたら、拒絶することなどできないのではないか?
もしかしたら、阿湘をまねるべきなのかもしれない、と彼は思う―――、楽しくやれる時には楽しみ、悲しくなれる時には悲しめばいい!
急流に漂う浮き草のように、あるいは大洋を漂う流木のように―――。
しかし流木のような宿命という考え方は、学生時代に身につけたことではなかったのか?
人はいつも失意の中で思い出すものだ―――。
「ああ―――。あれが愛だった―――。あれが愛だったんだ―――」
そして、いったい何度愛さなければならないのだろうか?
一生のうちに。一度―――。二度―――。あるいは、生きているかぎり、懸命に愛してもかまわない・・・・・。
老麻は冷たい風の中に立ち―――完成したばかりのあの歌を思う。
「もしかしたら―――。放っておこう。あの歌にこめた考えは、そのまま人間に対する想いに従って行くだろう―――。そして次第に薄れて行く―――」。
阿湘のあの様子―――。いつも男の間を行き来して、その度に捨てられる女の子―――、きっと多くの怨みも抱え込んでいるのではないだろうか?
老麻は思う―――自分には本当に感じることができる―――。
人間は何によって、過ぎ去った愛、心の中の剥がれ落ちた痛みを消滅させるのだろう?
憎しみ―― 恨み―― それとも――。
人がよく言うように―――。時間がいっさいの苦痛を取り除いてくれる。老麻は少し笑った―――。
自分はそんなことは考えたくないと思う。
百年後には、目の前の人も物もすべて消えてなくなるのだ・・・・・。
左に行こうが、右に行こうが―――。それは他人にとって何ら特別な意味もないのである。
「銭櫃か───Why not?」
もし自分がカラオケ店に現れ、一群の見知らぬ人々と一緒に歌を歌えば―――。
それも実に面白いではないか―――。
自分の足が我知らず、車の走り去った方向に向かっているのに、老麻は気がついた―――。
* * * * * * * * * * * * * * * *
彼は考えていた。彼の『思念人之屋』という歌は、7メジャーというコードで終わらせないといけないのだろうか?
突然こうも思う。こんなコードは本当に少し無責任な感じがする。もしかしたら、過ぎ去った日々にこのコードを好んでいた理由は、責任を負うということを受け入れなかったせいなのだろうか?
老麻は煙草に火をつけた。軽やかに笑いながら―――。
日本語訳:VIVIEN LIU